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宮本郁江第一句集『馬の表札』 

2014年6月  東京四季出版
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序にかえて  

 宮本さんの俳句の入り口は、群馬県前橋市にある煥乎堂書店、その六階の会議室で行われている句会である。
この煥乎堂句会に集まってきている人たちは、現在の煥乎堂書店社長の母堂である小林はるなさんの縁に繋がる人たちである。宮本さんはその句会の開設初期からの参加者で、二十年近くになるのだろうか。
 そんな宮本さんでも、俳句が分からないといまだに首を傾げるのである。誰でも、何年関わっても、俳句って何なのだろうと立ち止まるときがある。それは人生とは、と立ち止まるのに似ている。どちらも答えが出そうで出ない問い掛けなのである。

   花曇り隣の席に老夫婦

 となりの席とは、たまたま乗り合わした電車の席だったか、あるいは、宴席の隣の席だったのかもしれない。どちらにしても、ふと老夫婦に意識を寄せたのだ。それは人生とは、と問いかけて立ち止まったときと同じなのではないだろうか。
 意識を寄せたのが老人であるなら、自分の行方を見るような思いだったかもしれない。あるいはもういない父母と重ねているのかもしれない。その作者の心の漂いは万人に通じる普遍性となって共感を得るだろう。
 そうして、その視線こそが人生そのものを見詰めていることになるのだ。だから、宮本郁江さんの俳句にはいつも宮本さんが立ち現れる。

   城山へ柘榴の花の下を過ぐ
   水汲めば袖口濡れる秋桜
   水仙や鏡の中のひとりごと

 一句目の城山へ行く道すがら目をとめた柘榴の花。ただそれだけの事なのに、城山という茫々とした山を背景にして柘榴の花の輪郭が鮮やかになる。俳句とは、そうやって視点を提示するものなのである。その柘榴の花に留まることが、生きるということを問いかけていることなのである。
 昨今は事柄俳句が氾濫している。鑑賞者もまたそうした事柄俳句のほうが鑑賞しやすく取り上げ易い。しかし、宮本さんの句は、そうした作品とは一線を画している。あくまで対象を見捉えるようとしているのだ。それこそが、生きるということで、俳句がひとつずつ人生の句読点になる。
二句目は一読して、華やぎのようでもあり諦観のようでもある。
 視覚のなかの華やぎ、感覚のなかの諦念、そうした二重層性は作品の奥行となって読み手の胸に揺曳されてゆく。
 三句目の現実の水仙と鏡の中の水仙、それは虚実の表裏となる。その傍らの作者のひとりごとこそが、まさに問いかけなのである。俳句とは、あるいは人生とは、と問いかけても誰も明確な答えを出せない。それらの問は常に傍らに置いて俳句は作られてゆくべきなのだ。

   うららかやセールスマンは沖をみて

 不思議な句である。たとえばこれがサンドイッチマンなら直ぐ映像が浮かび上がる。だがセールスマンに際立つ服装があるわけではない。だとしたら作者の文学的な感性がセールスマンと断定したのではないかと思う。私が思い浮かべるのは吉行淳之介の『砂の上の植物群』の冒頭のシーンだ。

 港の傍に、水に沿って細長い形に広がっている公園がある。その公園の鉄製ベンチに腰をおろして、海を眺めている男があった。ベンチの横の地面に矩形のトランクが置いてある。藍色に塗られてあるが金属製で、いかにも堅固に見えた。

 (うららか)という季語に反する沖を見てゐるセールスマンの寂然とした映像、ここにも宮本さんの作品化するときの重層性が現れる。

   馬小屋に馬の表札神無月

 句集のタイトルになった作品。言われてみれば馬小屋にはその馬に与えられた名前がついていただろう。句は、そのことに視点を寄せている作者そのものとなる。
 馬小屋に馬の表札があったという一事、ただそれだけで一句の世界は無限に広がってゆくのである。表札には生年月日や生まれた土地まで書き記されていただろう。それによって読み手もまた馬の命の経歴へ思いを馳せる入口に立たされる。

   うららかや立ちて眠れる岬馬
   馬の眼に我映りゐし立夏かな
   新緑や縞馬の目も縞の中
   馬の背に鞍の重たき木下闇
   青空へ馬の嘶く枯野径
   馬の目に涙のあとや下萌ゆる
   二三人来て炎天の馬場均す
   夏木立神馬は眠りゐるらしき

 句集には馬の句が多いが、乗馬をしているご主人と一緒に馬場に足を運んだ影響のようだ。句集に纏められてみると、偶発的な対象物に過ぎないと思われがちなものが実はそうではなかったことに気が付くのである。ここにも、俳句が人生と一枚になっていることが浮上してくる。

   いつせいに七夕竹の揺れし街

 この一句はさり気なく詠まれているが、街の七夕竹がいっせいに揺れたと言っているのではない。それだけなら単なる実の世界が提示されているだけになる。(いつせいに七夕竹の揺れし街)という一気呵成な叙述によって、いつもと違う街の入り口に立たされるのである。ここに虚実皮膜の不思議さが現れる。
 私が俳句を学んだ川崎展宏氏は、俳句は苦心のあとを見せていけない、というのが信条だった。宮本さんの俳句は、その苦心の跡を消すまで叙述に拘った句集なのであ。
 
   2014年 仏生会の日に 岩淵喜代子
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by owl1023 | 2014-07-09 07:34 | 宮本郁江著書


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