長嶺千晶第三句集 『つめた貝』
![]() 自選15句 蝌蚪過ぎるひとかたまりの蝌蚪のうへ 涼しさや香炉ひとつが違ひ棚 浮かび合ふことの愉しき冷し瓜 忘られて金魚は部屋に生きてをり 立ちしまま化粧ひて朝の涼しさよ 階段に鉄の隙間の薄暑かな 古今集ひらけば夜々に鳴く鶉 クレソンのあをあをと冬来りけり 午過ぎの寒き灯となる魚市場 水飲みて言はざる一語夜の雪 訣別や雪原に押す煙草の火 息白く喪服で壁に凭れゐる 日向ぼこして遠き日の吾に逢ふ 冬桜こころに篤き文の嵩 引鶴や日輪白く濁りたる 「日常を磨く」 栞・小川軽舟 長嶺さんは日常生活の中で無理に背伸びすることもなく、その細部に丁寧に詩を見出していく。その姿勢が私は好きだ。 朝涼や片手で返すフライパン 時かけて鍋釜磨く鵙日和 例えばこのような句。朝食のためにフライパンで炒め物をしている。片手で揺すって中身をぽんと返す。何度繰り返した行為だろう。油がなじんで、いかにも使い慣れたフライパンだ。そして、時間がたっぷりある晴れた日に、鍋釜をまとめて磨く。どれも愛着のある大事な道具である。 こうした日常のありふれた断片が、朝涼や鵙日和の季語を得て詩になる。それは個人的な出来事が季語によって普遍性を得るということだ。私たちはこのようにして季語に出会うために毎日を暮らしている。季語と出会って詩になるのは一瞬のこと。その一瞬を待つために、日常の一齣一齣をおろそかにせず手入れしておくのだ。 本閉ぢていつもの時間水中花 金木犀旅にあるごと目覚めけり 小説を読んでいる間は、その小説の時間の中にいる。本を閉じたとたんにその時間は止まる。現実の時間に戻ってゆくものうさの中で、コップの中の水中花のあざやかな色がくっきり見える。金木犀の句は午後のまどろみのあとであろうか。カーテンを揺らす風に金木犀の香りがする。いつもと変わらぬ昼下がりなのに、それは旅の時間のようにほんの少し日常から遊離している。日常というものがそれとは異なる時間や空間にゆるやかに接していることをこの二句から知らされる。 小春日や眼鏡はづして糸通す 長嶺さんは昭和三十四年生まれ。三十六年早生まれの私とは学年一つ違いの同世代である。この句は四十代終わりに近づいた者の実感である。近眼鏡をしたままでは手許が見えにくくなった。だから眼鏡を外して近くのものを見る。老眼鏡が要るわけではない。眼鏡を外せば見えるというところにささやかなユーモアと自愛がある。 純情は真つ赤と思ふかき氷 かき氷のシロップの合成着色料らしいあざやかな原色が目に浮かぶ。あの強烈な色は、女の子のまっすぐな純情の強さでもあったのだ。「純情は真つ赤」と言われると、恥じらいいで染まった頬やら、初潮の赤、破瓜の赤まで連想はめまぐるしく移ってたじろぐ。同時に「真つ赤な嘘」という言葉にも思いが及ぶ。純情は手ごわいのである。 大寺の屋根の端より雀の子 大きな屋根の端で身をかたくしていた雀の子が、勇躍して飛び立った。ほかの参詣人は誰も見ていない。作者だけに見えたその構図は、大景の中の細部にきちんと焦点が合っている。細部があってこそ、全体がある。その世界の成り立ちを祝福する気分がうれしい。 チェロ弾くや独りに余る春灯 独りでチェロを弾いている。部屋には惜しみなく春の灯が満ちている。うるわしい春宵を独り占めにするうれしさと分かち合う人のいない寂しさとが綯交ぜになっているようだ。 そしてその両面は、春灯という季語が本来備えているものなのだと気づく。 by owl1023 | 2008-09-07 15:47 | 長嶺千晶著書
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