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草深昌子句集『邂逅』  

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 草深昌子句集『邂逅』 
 
   栞・『邂逅』に寄せて―――岸本尚毅


 ありがたいことに、私の句仲間には俳句の上手な人が多い。草深さんもその一人だ。上手なうえに、俳句とはどうあるべきかという問題意識が確かで、俳句が沈黙の文芸であることを理解している。
もともとは叙情的な作家と思われるが、辛抱しながら俳句に忠実ならんとしている。その結果、表現に抑えの効いた佳句が生まれる。

  赤梨に田舎の日差しとぞ思ふ
 
 「田舎」という、むずかしい言葉をよく使いこなしている。

  数珠玉を水切るやうに振ってをり

も好い。
 この句集は、総じて言葉に対する制御が行き届いている。極言すれば、俳句に必要なのは、感動でも叙情でもない。一つ一つの言葉がその一句に対してどのような影響を与えるのか、言葉と言葉がどのような相互作用を持つか、といったあたりの微妙な匙加減が、じつは句作りの本質なのではないだろうか。

  おしなべて秋草あかきあはれかな

などは、簡単な言葉を並べながら、秋草の風景の醸しだすニュアンスを掬いあげた。

 「写生句」の汲めども尽きぬ面白さは、言葉を微妙に繰りながら、風景を手繰り寄せるように描き取るところにある。

  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし

を写生というか否かは別としても、見事に咲ききった牡丹の花にも、どこか花びらの乱れたところや、色の整わぬところがあるものである。そのあたりを突き放したような、やや遠回りの言い方で言いとめている。この「遠回り」というところが、俳句における言葉の冒険の一つなのだ。

  青田風とは絶えまなく入れ替はる

 「青田風」とは案外むずかしい季題の一つ。この句は、感覚を抑えることによって、青田風の洞察に成功した。
 私自身よくわからないのだが、俳句とは本来、感動や叙情や、詩情というようなものを詠うものなのだろうか。もちろんそういった佳句は多々ある。しかし、本当に俳句らしい俳句はちょっと違うんじゃないかと、私は次のような句を見ながら思うのである。

  露時雨傘を刀に鞍馬の子
  大勢を振り向かせたる熊手かな
  大根は雨に一尺浮き出たる
  寒禽の日暮はじっとしてをれぬ
  貼紙に一つ苦情や花八ツ手


 このほか、この句集には

  かりがねや地球を巌とおもふとき
  セーターの黒の魔術にかかりけり


のように、観念に遊んだ好句や、

  蟻穴に出づる出合ひの辞儀あまた
  如何しても蟻の力を借りぬ蟻


のように、滑稽味を湛えた好句があることを付言して置こう。
 いずれにせよ、捨てるべき句をよく捨てた一巻であり、お世辞でなく、一読をお薦めし得るものと考えている。

                              *草深昌子句集・栞

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  『邂逅』より抄出

  花散るや何遍見ても蔵王堂
  たれよりも靴を汚してあたたかき
  こんこんと水湧く春の水の中
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
  青田風とは絶えまなく入れ替はる
  帰省子に階段一つづづ鳴りぬ
  大空は大穴なりし雲の峰
  秋風の赤子に眉の出できたり
  子規の忌の雨号泣す大笑す
  おしなべて秋草あかきあはれかな
  セーターの黒の魔術にかかりけり
  鮟鱇のだんだん平べったくなりぬ

                             
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  (第二句集『邂逅』・発行2003年6月6日・発行所 ふらんす堂)
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by owl1023 | 2007-07-06 17:01 | 草深昌子著書