カテゴリ:長嶺千晶著書( 3 )

長嶺千晶句集『つめた貝』 2008年9月9日ふらんす堂刊

長嶺千晶第三句集 『つめた貝』
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自選15句
蝌蚪過ぎるひとかたまりの蝌蚪のうへ
涼しさや香炉ひとつが違ひ棚
浮かび合ふことの愉しき冷し瓜
忘られて金魚は部屋に生きてをり
立ちしまま化粧ひて朝の涼しさよ
階段に鉄の隙間の薄暑かな
古今集ひらけば夜々に鳴く鶉
クレソンのあをあをと冬来りけり
午過ぎの寒き灯となる魚市場
水飲みて言はざる一語夜の雪
訣別や雪原に押す煙草の火
息白く喪服で壁に凭れゐる
日向ぼこして遠き日の吾に逢ふ
冬桜こころに篤き文の嵩
引鶴や日輪白く濁りたる



 「日常を磨く」 栞・小川軽舟
長嶺さんは日常生活の中で無理に背伸びすることもなく、その細部に丁寧に詩を見出していく。その姿勢が私は好きだ。

   朝涼や片手で返すフライパン
   時かけて鍋釜磨く鵙日和

 例えばこのような句。朝食のためにフライパンで炒め物をしている。片手で揺すって中身をぽんと返す。何度繰り返した行為だろう。油がなじんで、いかにも使い慣れたフライパンだ。そして、時間がたっぷりある晴れた日に、鍋釜をまとめて磨く。どれも愛着のある大事な道具である。
 こうした日常のありふれた断片が、朝涼や鵙日和の季語を得て詩になる。それは個人的な出来事が季語によって普遍性を得るということだ。私たちはこのようにして季語に出会うために毎日を暮らしている。季語と出会って詩になるのは一瞬のこと。その一瞬を待つために、日常の一齣一齣をおろそかにせず手入れしておくのだ。

   本閉ぢていつもの時間水中花
   金木犀旅にあるごと目覚めけり

 小説を読んでいる間は、その小説の時間の中にいる。本を閉じたとたんにその時間は止まる。現実の時間に戻ってゆくものうさの中で、コップの中の水中花のあざやかな色がくっきり見える。金木犀の句は午後のまどろみのあとであろうか。カーテンを揺らす風に金木犀の香りがする。いつもと変わらぬ昼下がりなのに、それは旅の時間のようにほんの少し日常から遊離している。日常というものがそれとは異なる時間や空間にゆるやかに接していることをこの二句から知らされる。

   小春日や眼鏡はづして糸通す

 長嶺さんは昭和三十四年生まれ。三十六年早生まれの私とは学年一つ違いの同世代である。この句は四十代終わりに近づいた者の実感である。近眼鏡をしたままでは手許が見えにくくなった。だから眼鏡を外して近くのものを見る。老眼鏡が要るわけではない。眼鏡を外せば見えるというところにささやかなユーモアと自愛がある。

    純情は真つ赤と思ふかき氷

かき氷のシロップの合成着色料らしいあざやかな原色が目に浮かぶ。あの強烈な色は、女の子のまっすぐな純情の強さでもあったのだ。「純情は真つ赤」と言われると、恥じらいいで染まった頬やら、初潮の赤、破瓜の赤まで連想はめまぐるしく移ってたじろぐ。同時に「真つ赤な嘘」という言葉にも思いが及ぶ。純情は手ごわいのである。

   大寺の屋根の端より雀の子

大きな屋根の端で身をかたくしていた雀の子が、勇躍して飛び立った。ほかの参詣人は誰も見ていない。作者だけに見えたその構図は、大景の中の細部にきちんと焦点が合っている。細部があってこそ、全体がある。その世界の成り立ちを祝福する気分がうれしい。

   チェロ弾くや独りに余る春灯

独りでチェロを弾いている。部屋には惜しみなく春の灯が満ちている。うるわしい春宵を独り占めにするうれしさと分かち合う人のいない寂しさとが綯交ぜになっているようだ。
そしてその両面は、春灯という季語が本来備えているものなのだと気づく。
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by owl1023 | 2008-09-07 15:47 | 長嶺千晶著書

句集

第二句集『夏館』長嶺千晶

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本阿弥書店 2003年7月1日 刊
帯文 装丁 加藤恒彦

帯文
 
 落ち着きと居住まいの正しさの中にも
     ほのかに漂うユーモア
  豊かな感性で時の流れを見つめ
 真摯に、そしてしなやかに「今」を詠う
     著者充実の第二句集


 



 収録作品より
 引く波を押し上ぐる波鷹渡る
 日盛りの影をちぢめて象老ゆる
 苦瓜やぶらさがるものみな愉し
 事務椅子の半回転に雲の峰
 田蛙のキリリコロロと父老ゆる
 朝寝して海はればれとありにけり
 油絵に昭和の暗さ夏館
 まだかたき桃のごとくに拗ねてをり
 屈伸や地のたんぽぽに届くまで
 蝌蚪に足出て笑ひたき日なりけり
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by owl1023 | 2007-07-06 08:37 | 長嶺千晶著書

句集

長嶺千晶第一句集『晶』

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本阿弥書店 1994年6月15日 刊

序文 成田 千空

帯文 成田 千空(序文より)
この人の俳句はかなり自由に発想しながら、感情に流されない表現の確かさがある。省略の確かさといってもよい。対象に触発された発想のポイントを掴んで離さない。感性と知性のバランスが一種の美を生んでいる。

   


 

収録句より
    雉歩く頚の虹色さざめかせ
    春昼や肉屋は赤き肉掴み
    こまやかに魚食ふ父や春の宵
    積むケルンこつと音して師なき秋
    芽吹く薔薇詩は放たれし光なる
    わが齢の三十はまた雛の齢
    嫁ぎ来てちちははへ書く年賀状


序 成田 千空

長嶺千晶さんはおとなしい人に見えて、燈がともったように周辺が明るくなる感じの人である。
若くて美しい都会の女性、といっていまえばちょっと歯が浮くようなことばになってしまうが、自己
賛美的な要素がまったく無い、知性と感性を内部に育ててきた人であろう。その静かなかがやきがおのずから存在の證しとなる、そういう人だと思う。
 昭和六十二年に松本で行われた萬緑全国大会の折、私ははじめて千晶さんを知った。すでに中村草田男先生亡く、その後を継いだ香西照雄氏も亡くなった後の大会で、賑わいの中にも
寂寥感があった。海抜2千メートルの美ヶ原の高原から見る北アルプスの連峯がすばらしく、登山家でもある北野民夫氏の説明を聞きながら<ししうどや金剛不壊の峰のかず>という句をつくった覚えがある。美ヶ原の頂上附近に幾つかのケルンが積まれてあって、それも恰好の句材であり、その周辺に人影が絶えなかったが、句会のとき発表されてみると、千晶さんの、

    積むケルンこつと音して師なき秋

が最高点になった。そういえば千晶さんはケルンの傍らから離れなかった印象である。<師なき
秋>の師とは、私たちにとってはむろん草田男先生であり、千晶さんにとっても変わりがないであろうが、より直接的には香西氏のことであったと思われる。ケルンの上にみずから積んだ石が
「こつと音」したという。この音が共鳴を誘うのは作者の真実感にほかならない。それはまた松本
大会の印象を集約した忘れがたい一句であった。
 千晶さんは昭和三十四年東京に生れ、母上の手ほどきで句作を始めたという。五十八年に香西氏と出会い「萬緑」に入会したとき、すでに有望な新人として迎えられたといってよい。だが草
田男先生の最晩年であり、「樹頭の花」で先生の選を受けたのは二回きりで先生と永別され、生の謦咳に接する機会がついに無かったようである。以後、香西氏をはじめ萬緑青年句会で写生を叩き込まれたという。香西氏が雑詠選評「四季開花」に採り上げた千晶の句は次の通りである。

    雉歩く頸の虹色さざめかせ

「雉が歩く時の頸毛の共揺れのざわめきと、三彩のさざなみのような輝きの美しさが定着されている。的確な写生に基づく見事なレトリックである。」

    ボロ市や空を映して鏡売る

「ボロ市で中古の手鏡や姿見を売っている。鏡に映った青空は、混雑した市の人々に、頭上に広がる空の解放感を改めて思い出させる。中古の鏡に空というおまけを付けて売っているのだ」
   
 鯉の水尾ゆつたり錯綜糸桜

「公園の池のほとり、枝垂桜が微風に揺れてゆっくりと錯綜する。下の水面では多くの鯉の背鰭
や尾鰭が起こした水尾が、縦横に入り混じまじっている。<ゆつたり>は、のどかでゆたかな感じを表わす。それで水尾のひろがりやその交叉のゆたかさをも暗示する」

 香西氏の指導とそれに応える千晶さんのひたすらな写生修行が感じられるが、大学でフランス文学を学んだセンスも生かされて、入会後たちまち頭角をあらわしたのであった。だが、六十
二年にはその香西氏とも永別されて、美ヶ原の鎮魂の一句が生れたのであった。
「萬緑」の新人たちは草田男先生以後、香西、北野、成田と選者が替って動揺したと思われる。
千晶さんの場合、すべて二十代の時期の事であったが、彼女は草田男俳句を学ぶことでむしろ目標が明確になったと私は見ている。写生を基礎とする「芸と文学」の実践である。草田男先生と会っていない彼女は、しばしば先生の墓参をされている。カトリック墓地のその寝墓には、
「勇気こそ地の塩なれや梅真白」の一句が深く刻まれており、師の啓示を受けるために彼女は墓参されているのかもいれない。

     草田男忌帽子の下の顔昏るる
     露の墓一会なく師と仰ぎつつ
     草田男忌来る赤松は雲払ひ

 私が「樹頭の花」の選を担当することになったのは平成元年であるが、千晶さんに注目してきたのはいうまでもない。「四季開花」の選評で私は彼女の句について斯う書いた。
  この人の俳句はかなり自由に発想しながら、感情に流されない表現の確かさがある。省略の確かさといってもよい。対象に触発された発想のポイントを掴んで離さない。感性と知性のバランスが一種の美を生んでいる。若い人ならもっと燃えて欲しい感じもするが、なりふりかまわぬ態度ができないらしい。

     蝦の眼の燐光放つ無月かな

 無月の闇に蝦の眼が燐光を放っていると見た。妖しい燐光のリアリティがある。蝦の眼にとって無月は海のような暗さであり、燐光と無月の照応が一種の幻想美を誘う。

     幼な児に昨日は遠し桐の花

 昨日、今日、明日という時間の連続の中に生きて、昨日にこだわり明日を思いわずろうわが生きざまに対して、幼児には昨日はもう忘却の彼方にありと見た。それは作者の内部に残っていて喚起された世界なのかもしれない。自由な時間への羨望。この時作者は詩人であった。桐の花が効いている。

     色彩のさざなみ涼しクレー展

 ポール・クレー展の印象。淡い色彩と繊細な線を駆使した美しい画面構成に魅せられたのであろう。壁面に展開されたクレーの世界を「色彩のさざなみ」というフレーズで書きとめた稚純な
感性にひかれる。クレーの絵に純化されたこころの表現といってよい。とまれこの十年間に千晶さんの俳句は少しずつ変ってきて、もう一つ飛躍する体勢にありこれまでの作品を選んで「晶」と名づけたゆえんに注目したい。
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by owl1023 | 2007-07-05 05:00 | 長嶺千晶著書