優しく深いまなざしと知的ユーモアあふれる俳句集 足柄の地や旅先でみつけた、日々の風景や出会った人びと。独自の感性で紡がれる十七音に、著者の精緻な観察と鋭い知性を感じます。本人から語られるエッセイ「俳句の背景」も収録。句がより味わい深く感じられる一冊。 バレイタインー机に一つ柚子転ぶ 糸口を知る皀莢につまづいて 冬すみれ夢も希望も足元に #
by owl1023
| 2009-03-20 13:29
| 平林恵子著書
長嶺千晶第三句集 『つめた貝』
自選15句 蝌蚪過ぎるひとかたまりの蝌蚪のうへ 涼しさや香炉ひとつが違ひ棚 浮かび合ふことの愉しき冷し瓜 忘られて金魚は部屋に生きてをり 立ちしまま化粧ひて朝の涼しさよ 階段に鉄の隙間の薄暑かな 古今集ひらけば夜々に鳴く鶉 クレソンのあをあをと冬来りけり 午過ぎの寒き灯となる魚市場 水飲みて言はざる一語夜の雪 訣別や雪原に押す煙草の火 息白く喪服で壁に凭れゐる 日向ぼこして遠き日の吾に逢ふ 冬桜こころに篤き文の嵩 引鶴や日輪白く濁りたる 「日常を磨く」 栞・小川軽舟 長嶺さんは日常生活の中で無理に背伸びすることもなく、その細部に丁寧に詩を見出していく。その姿勢が私は好きだ。 朝涼や片手で返すフライパン 時かけて鍋釜磨く鵙日和 例えばこのような句。朝食のためにフライパンで炒め物をしている。片手で揺すって中身をぽんと返す。何度繰り返した行為だろう。油がなじんで、いかにも使い慣れたフライパンだ。そして、時間がたっぷりある晴れた日に、鍋釜をまとめて磨く。どれも愛着のある大事な道具である。 こうした日常のありふれた断片が、朝涼や鵙日和の季語を得て詩になる。それは個人的な出来事が季語によって普遍性を得るということだ。私たちはこのようにして季語に出会うために毎日を暮らしている。季語と出会って詩になるのは一瞬のこと。その一瞬を待つために、日常の一齣一齣をおろそかにせず手入れしておくのだ。 本閉ぢていつもの時間水中花 金木犀旅にあるごと目覚めけり 小説を読んでいる間は、その小説の時間の中にいる。本を閉じたとたんにその時間は止まる。現実の時間に戻ってゆくものうさの中で、コップの中の水中花のあざやかな色がくっきり見える。金木犀の句は午後のまどろみのあとであろうか。カーテンを揺らす風に金木犀の香りがする。いつもと変わらぬ昼下がりなのに、それは旅の時間のようにほんの少し日常から遊離している。日常というものがそれとは異なる時間や空間にゆるやかに接していることをこの二句から知らされる。 小春日や眼鏡はづして糸通す 長嶺さんは昭和三十四年生まれ。三十六年早生まれの私とは学年一つ違いの同世代である。この句は四十代終わりに近づいた者の実感である。近眼鏡をしたままでは手許が見えにくくなった。だから眼鏡を外して近くのものを見る。老眼鏡が要るわけではない。眼鏡を外せば見えるというところにささやかなユーモアと自愛がある。 純情は真つ赤と思ふかき氷 かき氷のシロップの合成着色料らしいあざやかな原色が目に浮かぶ。あの強烈な色は、女の子のまっすぐな純情の強さでもあったのだ。「純情は真つ赤」と言われると、恥じらいいで染まった頬やら、初潮の赤、破瓜の赤まで連想はめまぐるしく移ってたじろぐ。同時に「真つ赤な嘘」という言葉にも思いが及ぶ。純情は手ごわいのである。 大寺の屋根の端より雀の子 大きな屋根の端で身をかたくしていた雀の子が、勇躍して飛び立った。ほかの参詣人は誰も見ていない。作者だけに見えたその構図は、大景の中の細部にきちんと焦点が合っている。細部があってこそ、全体がある。その世界の成り立ちを祝福する気分がうれしい。 チェロ弾くや独りに余る春灯 独りでチェロを弾いている。部屋には惜しみなく春の灯が満ちている。うるわしい春宵を独り占めにするうれしさと分かち合う人のいない寂しさとが綯交ぜになっているようだ。 そしてその両面は、春灯という季語が本来備えているものなのだと気づく。 #
by owl1023
| 2008-09-07 15:47
| 長嶺千晶著書
宇陀草子句集 『吉野口』 自選十句 ショパン聴く朝あぢさゐに風あふれ 虹消えて巌頭に裸かゞやかす 小走りに人ゆくおぼろ宇陀郡 稲架解いて亀石に日のあたりけり 一陣の野火立ちあがる吉野口 毛皮着て即身仏にみつめらる 獅撃ちの腰にはねたる守り札 亀鳴くや自称「裕」の終の弟子 深吉野の山彦自在に秋の空 冬晴れの鳶よくひびく裕句碑 序に代えて 原裕 鵙日和寺の障子の両開き 石鼎顕彰の集いでも、大会に先立ち東吉野村天照寺において盛大な法要がこころゆくまで催されたが、この句は鵙晴れの大気を大きく吸い込んで法事のこころを見事に演出している。「寺の障子の半開き」で、開け放たれた寺座敷が清潔に感じられる。 毛皮着て即身仏にみつめらる 今月の作品は、いずれも出羽三山詣の折りの作品であるが、俳句作りとしての信念が通っている力作である。 杉の間の雪山彦や羽黒山 即身仏雪かぎりなき出羽の国 毛皮着て即身仏にみつめらる 白鳥の羽搏ち頭上に最上川 雪嶺となりて鳥海山くれゆけり とくに「即身仏」に対してのまなざしはきびしく、それが自己の内面を照らし出しているところに俳人(創作者)としての、仏に向う真摯な姿勢が、作品をゆたかなものにしている。 「即身仏雪かぎりなき出羽の国」は芭蕉も訪れたこの風土への渾身の挨拶の中で即神仏への呼びかけがうかがえ、また「毛皮着て即身仏にみつめらる」には、この世、あの世をへだてて即神仏と対峙している作者が浮び上がる。ドラマチックな構成に工夫がみられ自立した作品に仕上げている。 猪撃ちの腰にはねたる守り札 「猪撃ち」は山国の人々の生活であるが、作者はそこにかけがえのない季節の命を見出す。 「腰にはねたる守り札」を見逃すことのなかった作者の心眼にふれる思いがする。 鹿火屋誌より転載 #
by owl1023
| 2008-07-29 02:40
| 宇陀草子著書
第四句集『嘘のやう影のやう』
12句抄 草餅を食べるひそけさ生まれけり 薔薇園を去れと音楽鳴りわたる 針槐キリスト今も恍惚と 嘘のやう影のやうなる黒揚羽蝶 緑蔭に手持ち無沙汰となりにけり 雫する水着絞れば小鳥ほど 三角は涼しき鶴の折りはじめ 運命のやうにかしぐや空の鷹 雪吊の雪吊ごとに揺れてゐる 秋霖の最中へ水を買ひに出る 白鳥に鋼の水の流れけり 古書店の中へ枯野のつづくなり 栞 斉藤慎爾 「嘘のやう影のやう」へのオード 〈陸沈〉の佳人 岩淵喜代子さんには〈陸沈〉の人という印象がある。これまでの俳壇のパーティで数回お会いしているが、初めて会った折に受けたその印象は少しもかわらない。「パーティ」と〈陸沈〉―ー これは矛盾しているであろうか。そう反論する人もいるかもしれないが、私にとってはごく自然のことである。 〈陸沈〉について小林秀雄の還暦の感想を借りれば、「‥‥‥孔子は陸沈といふ面白い言葉を使って説いてゐる。世間に捨てられるのも、世間を捨てるのも易しい事だ。世間に迎合するのも水に自然と沈むやうなものでもつとも易しいが、一番困難で、一番積極的な生き方は、世間の真中に、つまり水無きところに沈む事だ、と考へた」(『考えるヒント』「還暦」)ということになる。むろん「パーティ」は世間の真中」ではないが、「世間」であることも事実である。孤独な世界、さしあたって、(俳人たちに背をむけた世界)を歩こうと決意した人間がいて、彼がやむなくパーティに出ざるを得ぬことも現世にはままあるのである。 新句集『嘘のやう影のやう』の「あとがき」で、岩淵さんは立冬の頃、出羽の霊山・月山に登った折の挿話を披瀝されている。掌文ながら、読む物の精神の襟を正さしむるような凛とした内容に富む。頂上を目指したのは、当時40代だった「鹿火屋」主宰の原裕を加えた男性三人と岩淵さん。「芭蕉が月山に登ったのは、僕と同じ歳だったよね」とぽつりと呟く原裕氏。原氏に比して「私はもっと若かったから、その年齢差も手伝って、当時でも偉大な貫禄のある俳人という受け止め方をしていた」と岩淵さん。そして「月山は橅類ばかりで、山を登るたびに透明度の増す黄葉が美しかった」という静寂なる一行が置かれる。 私はこの絶景に師弟道もしくは俳句道というものの比喩を見る。月山の頂上という「聖なるもの」を目指す師弟の心の深まりの距離、時間の暗示を見る。月山という此の世ならぬ幽明の世界を背景にしているだけに、この挿話は心に響く。山=師に対して自己を低める敬虔、怖れ。「神に向かっておのれを低める」ことを生涯の試練とした詩人ポール・クローデルは、アンドレ・ジイドに向っておのれがいかに低い、小さな存在であるかを知ることができる」と述べたという。クローデルのいう神を師に換喩し、私は岩淵さんと原裕氏や川崎展宏氏との絶対的な関係を羨望する。「自己を低める」ことが陸沈の所作であることはいうまでもない。 『嘘のやう影のやう』一巻にはいまや自身が人の師たる資格を十分に合わせ持つに到った岩淵喜さんの死生一如の精神が蒼白い隣光を放っている。敢えて十八句を録しておきたい。 #
by owl1023
| 2008-03-05 00:28
| 岩淵喜代子著書
上田禎子 第一句集『二藍』
自選十句 少年を見舞ふ車座赤のまま パラソルをさしてモネの絵の風の中 新しき箸を揃へぬ星の妻 藁塚や只見川にかかる橋いくつ きさらぎの風の街道獅子座まで 水温む葉刷子立ての亡夫のもの 月を待つ清貧家族膝揃へ 業平忌レモンの色の指輪買ふ ミントの葉折りて秋の日遊ぶかな 賀茂祭馬をなだめて発ちにけり 取り合わされた二つの物(事)の間に立つエーテル状のものに心を打たれる。例えば「業平忌」の一句。その業平忌と、「レモンの色の指輪買ふ」のフレーズは、本来まったく関係のないことだが、作者にはそれが適うと思える。これも私が日頃から言う「心の色」なのである。その心の色こそが先に書いた「個の発現」ということになる。榎本好宏「序に代えて」より 目次より 旅の夜を線香花火で閉ぢにけり あをあをと硝子の空を帰燕かな 紅葉狩り吾に棲みつく天邪鬼 夜の秋蝶々魚はしあはせか 雪催タイ料理でも食べに行こ 角川書店 2007年刊 #
by owl1023
| 2007-11-16 14:01
| 上田禎子著書
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