句集

宮城雅子第一句集『薔薇園』   文学の森社刊

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『薔薇園』収録作品より

  老人の日の車座の中にあり
  東をどりの妓がタクシーへ手を振りぬ
  薔薇園のベンチに数学解く乙女
  白磁壷どこも正面秋桜
  本堂の暗きに慣れて汗拭ふ
  望遠レンズ互に覗く冬帽子
  満席の五月の空の観覧車
  人影の動くに揺るる冬牡丹
  人の目を恋うて近づく神の鹿
  水底の浅蜊鳴き出す日暮時



跋  「樹の会」の仲間たち       岩淵喜代子 
 
 宮城雅子さんのことを語るには、私と一緒に参加していた「樹の会」の紹介が一番手っ取り早いのである。ことに、そこで作ったアンソロジーに記したあとがきが、会のありようを伝えているので、全文を引くことにした。
 
 「樹の会」は不思議な集まりである。会が存続すれば湧いてくるはずのざわめきがない。会が続けば当然起こるはずの馴れ合いが生まれない。
何んとも静かな集まりである。
 ひたすら原裕先生のご指導に耳を傾ける場であった。
 しかし、その静かさも、十年の歳月を重ねてきたということになれば、ただの静かさではない。その証拠に、いつ誰がともなく十年の折目をつけたいという意見が結集して、このようなアンソロジーが生まれることになった。      
  (1992年7月「樹の会」あとがきより岩淵喜代子)

 アンソロジーといっても、会員の句を三六五日の暦に編集したもので、今見直してみてもユニークな企画だった。
 宮城さんもみんなと同じように、黙々と会場に現れ、終ればまた深々と頭を下げて会場を出て行く月日を重ねていた。会は十周年のあとも続いていた。しかし、原先生の体調が思わしくなくなって、わたしたちのほうでご来駕を危ぶんでいたが、辞めるとはおっしゃらなかった。だが、その後さらに病状が進んで会は解散せざるを得なかった。
 宮城さんはそれを機に鹿火屋会をも遠ざかって、音信も絶えていた。それが今年の夏、突然、そのときの原先生の目を通してくださった作品を纏めたいという意を伝えてきた。  そして、その句集をばねにして「ににん」で俳句を作っていきたいという意思を述べられた。

  老人の日の車座の中にあり
  東をどりの妓がタクシーへ手を振るぬ
  薔薇園のベンチに数学解く乙女
  本堂の暗きに慣れて汗拭ふ
  望遠レンズ互に覗く冬帽子
  満席の五月の空の観覧車
  人影の動くに揺るる冬牡丹
  登り口いくつもありて山法師
  人の目を恋うて近づく神の鹿
  水底の浅州鳴き出す日暮時
  サングラスに映る街並み異国めく


 これらはすべて原裕先生の選を受けた俳句である。先生の真撃な生き方を学んだ一集である。                             
                                   
                                    平成十六年十月吉日


(平成16年12月18日発行・株式会社文學の森・句集『薔薇園』宮城雅子)
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# by owl1023 | 2007-07-06 17:41 | 宮城雅子著書

句集

平林恵子第一句集 『秋冷の竹』   

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帯文  塩田丸男
 平林恵子さんの俳句は、ひと口でいうと「一念の俳句」である。つらぬき通す美しさを持っている。これは最近の日本人にもっとも欠けているものではないだろうか。多分、お人柄によるものだろう。一句一句の良し悪しよりも句集一巻を読みおわったあとの感興がよかった。心に沁みた。これからもぜひ、一念をつらぬき通してください。








跋 背筋の見える人  岩淵喜代子
 平林恵子さんのことに触れるには、わたしの俳句入門の時期あたりから語らなければならない。
 それは、一九七五年頃だった。「鹿火屋」という文字の読み方にさえ戸惑っていた頃である。
 その「鹿火屋」誌の巻頭近くにいつも輝いていた一人に、平林恵子さんがいた。
 ほかに私が覚えているのは、中山一路さん、長谷川貴枝さん、永島理江子さん、椎橋清翠さん、美馬和代さん直江るみ子さん、川村和子さん等、そのすぐ後で浮上してきたのが、小室義弘さん、北沢瑞史さん等であった。鹿火屋の外側の人たちでも、この名前を知っていると頷く人は多い筈だ。 
 だが、いつこれらの人たちが消えたのか、その消え際は見ていないまま、気がつけばそれらの半数以上の名が、その数年後に消えていた。消えていたというのは、浮上した新人に座を奪われたのではない。誌上から消えていったのである。
 現在、鹿火屋誌上に名前を残しているのは、中山一路さんだけである。
 その先輩たちの流麗な俳句に、私も感化されて育ったと思っている。
 これらの仲間の中でも平林さんの句風は、理知的で硬質で、鮮明な輪郭を持っていた。

  雨意のおく再びまみゆ吉野藤
  祝ごとの母の姉妹や切山椒
  焚く中の松の匂ひに冴え返る
  音読の背なに重ねし青網戸

 
 ひたすら、鹿火屋の伝統を継承していた原コウ子に育てられたこの作家の緻密な表現は見事である。

  秋冷の竹を眺むるあとずさり

 この句が、まだ主宰になって間のな原裕先生の鑑賞で提示されたときの印象は忘れられない。
 ただただ真っ青な竹林の前に立つ作者の、俳句への厳しい姿勢を見たような気がした。
 私は、平林さんと同じ歳である。それが、お互いの親近感となって、何度も旅を重ねている。これからも、いろいろ旅に同行させていただきたいと思っている。

  二〇〇四年 盛夏                                  

2005年  文学の森社刊
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# by owl1023 | 2007-07-06 17:40 | 平林恵子著書

句集

 恋の句愛の句  『かたはらに』 岩淵喜代子

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2004年 文学の森社刊
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# by owl1023 | 2007-07-06 17:23 | 岩淵喜代子著書

句集


岩淵喜代子 第三句集『硝子の仲間』   

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帯     ・・・・・・清水哲男
 岩淵喜代子さんのポエジーの源は、
 いつも一本の樹木を想わせる。
 あるときは太い幹から発せられ
 あるときは高い梢から、
 かと思うと細い小枝から、
 ときには裏返しの葉っぱから
 と自在である。
 句集でこれらの多彩な
 ポエジーが響きあい
 おのずから読者を
 生きる歓びへと誘ってくれる。
 木漏れ日の下に、この一冊を。


自選15句抄
   魂も石榴もひとつとかぞへけり
   冬の宿風見るほかに用もなし
   穂薄も父性も痒くてならぬなり
   青空のひらと舞ひ込む雛祭
   七人の敵に風船飛ばしけり
   和解などする気なけれど柳絮飛ぶ
   葱坊主うらもおもてもなき別れ
   抱へたるキャベツが海の香を放つ
   氷室守秘密の部屋を開けるごと
   空蝉も硝子の仲間に加へけり
   われわれと書くとき夕顔ひらきけり
   秋風の枕をときに顎の下
   角のなき鹿も角あるごと歩む
   桐の実を見るは耳掻き使ふとき
   初冬の舟の食事の見えにけり


        2004年 角川書店刊
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# by owl1023 | 2007-07-06 17:20 | 岩淵喜代子著書

草深昌子句集『邂逅』  

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 草深昌子句集『邂逅』 
 
   栞・『邂逅』に寄せて―――岸本尚毅


 ありがたいことに、私の句仲間には俳句の上手な人が多い。草深さんもその一人だ。上手なうえに、俳句とはどうあるべきかという問題意識が確かで、俳句が沈黙の文芸であることを理解している。
もともとは叙情的な作家と思われるが、辛抱しながら俳句に忠実ならんとしている。その結果、表現に抑えの効いた佳句が生まれる。

  赤梨に田舎の日差しとぞ思ふ
 
 「田舎」という、むずかしい言葉をよく使いこなしている。

  数珠玉を水切るやうに振ってをり

も好い。
 この句集は、総じて言葉に対する制御が行き届いている。極言すれば、俳句に必要なのは、感動でも叙情でもない。一つ一つの言葉がその一句に対してどのような影響を与えるのか、言葉と言葉がどのような相互作用を持つか、といったあたりの微妙な匙加減が、じつは句作りの本質なのではないだろうか。

  おしなべて秋草あかきあはれかな

などは、簡単な言葉を並べながら、秋草の風景の醸しだすニュアンスを掬いあげた。

 「写生句」の汲めども尽きぬ面白さは、言葉を微妙に繰りながら、風景を手繰り寄せるように描き取るところにある。

  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし

を写生というか否かは別としても、見事に咲ききった牡丹の花にも、どこか花びらの乱れたところや、色の整わぬところがあるものである。そのあたりを突き放したような、やや遠回りの言い方で言いとめている。この「遠回り」というところが、俳句における言葉の冒険の一つなのだ。

  青田風とは絶えまなく入れ替はる

 「青田風」とは案外むずかしい季題の一つ。この句は、感覚を抑えることによって、青田風の洞察に成功した。
 私自身よくわからないのだが、俳句とは本来、感動や叙情や、詩情というようなものを詠うものなのだろうか。もちろんそういった佳句は多々ある。しかし、本当に俳句らしい俳句はちょっと違うんじゃないかと、私は次のような句を見ながら思うのである。

  露時雨傘を刀に鞍馬の子
  大勢を振り向かせたる熊手かな
  大根は雨に一尺浮き出たる
  寒禽の日暮はじっとしてをれぬ
  貼紙に一つ苦情や花八ツ手


 このほか、この句集には

  かりがねや地球を巌とおもふとき
  セーターの黒の魔術にかかりけり


のように、観念に遊んだ好句や、

  蟻穴に出づる出合ひの辞儀あまた
  如何しても蟻の力を借りぬ蟻


のように、滑稽味を湛えた好句があることを付言して置こう。
 いずれにせよ、捨てるべき句をよく捨てた一巻であり、お世辞でなく、一読をお薦めし得るものと考えている。

                              *草深昌子句集・栞

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  
  『邂逅』より抄出

  花散るや何遍見ても蔵王堂
  たれよりも靴を汚してあたたかき
  こんこんと水湧く春の水の中
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
  青田風とは絶えまなく入れ替はる
  帰省子に階段一つづづ鳴りぬ
  大空は大穴なりし雲の峰
  秋風の赤子に眉の出できたり
  子規の忌の雨号泣す大笑す
  おしなべて秋草あかきあはれかな
  セーターの黒の魔術にかかりけり
  鮟鱇のだんだん平べったくなりぬ

                             
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  (第二句集『邂逅』・発行2003年6月6日・発行所 ふらんす堂)
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# by owl1023 | 2007-07-06 17:01 | 草深昌子著書

句集

第二句集『夏館』長嶺千晶

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本阿弥書店 2003年7月1日 刊
帯文 装丁 加藤恒彦

帯文
 
 落ち着きと居住まいの正しさの中にも
     ほのかに漂うユーモア
  豊かな感性で時の流れを見つめ
 真摯に、そしてしなやかに「今」を詠う
     著者充実の第二句集


 



 収録作品より
 引く波を押し上ぐる波鷹渡る
 日盛りの影をちぢめて象老ゆる
 苦瓜やぶらさがるものみな愉し
 事務椅子の半回転に雲の峰
 田蛙のキリリコロロと父老ゆる
 朝寝して海はればれとありにけり
 油絵に昭和の暗さ夏館
 まだかたき桃のごとくに拗ねてをり
 屈伸や地のたんぽぽに届くまで
 蝌蚪に足出て笑ひたき日なりけり
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# by owl1023 | 2007-07-06 08:37 | 長嶺千晶著書

共著

100人20句     巴書林  平成13年8月30日 第一刷

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新しさを追うあまりに、俳句の土台を見失うことがないようにしたい。 
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収録句(岩淵喜代子)
滲み出てくる鶏頭の中の闇         『朝の椅子』
まんさくは鬼の振向いてゆきし花
月山の木の葉かぞへて寝ねんとす
冷まじや一人をかくす寺柱

蝙蝠やうしろの正面おもひだす       『螢袋に灯をともす』
逢ひたくて螢袋に灯をともす
端居して帰りゆ処のなきごとし
空腹や海月はゆらす身のすみずみ
噴水の虹は手に取る近さなる
ポンペイの蜥蜴はいつも濡れてゐる
身ほとりに鳴子の縄をめぐらしぬ
空也忌の闇が動いてくるやうな
初刷に発車のベルの火のごとし
朝日にも夕日にも山笑ひけり
あつあつの目刺のどこを齧ろうか
にはとりは春の嵐の下くぐる
春深し鳥に背筋のあることも
大空の端は使はず揚雲雀
カステラと聖書の厚み春深し
少しづつ暮れてくれきる桃の花
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# by owl1023 | 2007-07-06 00:49 | 岩淵喜代子著書

句集

岩淵喜代子 句集 『螢袋に灯をともす』 
2001年度の四季出版「俳句四季大賞」第一回受賞

帯文   第一句集『朝の椅子』以降から13年間間の作品を収録。亡き師・原裕への哀悼の意をこめて御前にささぐ第二句集。虚脱喪心の日々を経て、新たなる俳句への出発。




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句集抜粋
    蝙蝠やうしろの正面おもひだす
    裸子のつまみどころもなかりけり
    噴水の虹は手に取る近さなる
    空腹や海月はゆらす身のすみずみ
    ポンペイの蜥蜴はいつも濡れてゐる
    新涼の馬ふりかへりふりかへり
    身ほとりに鳴子の縄をめぐらしぬ
    軒下に何もかも吊る冬日かな
    空也忌の闇が動いてくやうな
    太古より壺は壺形初明り
    終の雪白樺に降り馬に降る
    にはとりは春の嵐の下くぐる
    春深し鳥に背筋のあることも
    大空の端は使はず揚雲雀

ふらんす堂 2000年刊
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# by owl1023 | 2007-07-06 00:28 | 岩淵喜代子著書

エッセイ集

岩淵喜代子著エッセイ集『淡彩望』  
                                    墨彩画  山内美代子
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帯文 正津 勉
何かへ心を凝らしている」。集中冒頭の「去年今年」にある言葉だ。 岩淵喜代子は美しい瞳をしている。そのつよく曇りのない瞳でみつめられた、ときの表情、おりふしの出来事、それらはなんと優しい光に包まれいるだろう。ときにわたしたちは聴くことになるのである。「深い内部では、すべてが法則です」という声を。

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b>本文「辛夷の花」より
~~そのみどりの樹の中ほどに、最後の花びらがいつまでも留まっていのが気になっていたが、それもある日消えてしまった。すると、過ぎたいく日かが、とりわけ穏やかな日和であったことに気がつくのである。

あとがき
この『淡彩望』は、長年にわたって書きためた文章の中から、俳句の延長線上にある作品を一集にしたものである。そのため、あえて俳詩、あるいは俳詞というジャンルを作りたいのである。 詩人正津勉氏の推薦文と山内美代子さんの墨彩画をそえていただけたことに弾みをつけて上梓する運びになった。発行するにあたって助けていただいた多くの方々に、厚く御礼を申し上げる。 1999年10月 岩淵喜代子

200年2月  ふらんす堂刊 
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# by owl1023 | 2007-07-05 21:35 | 岩淵喜代子著書

句集

長嶺千晶第一句集『晶』

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本阿弥書店 1994年6月15日 刊

序文 成田 千空

帯文 成田 千空(序文より)
この人の俳句はかなり自由に発想しながら、感情に流されない表現の確かさがある。省略の確かさといってもよい。対象に触発された発想のポイントを掴んで離さない。感性と知性のバランスが一種の美を生んでいる。

   


 

収録句より
    雉歩く頚の虹色さざめかせ
    春昼や肉屋は赤き肉掴み
    こまやかに魚食ふ父や春の宵
    積むケルンこつと音して師なき秋
    芽吹く薔薇詩は放たれし光なる
    わが齢の三十はまた雛の齢
    嫁ぎ来てちちははへ書く年賀状


序 成田 千空

長嶺千晶さんはおとなしい人に見えて、燈がともったように周辺が明るくなる感じの人である。
若くて美しい都会の女性、といっていまえばちょっと歯が浮くようなことばになってしまうが、自己
賛美的な要素がまったく無い、知性と感性を内部に育ててきた人であろう。その静かなかがやきがおのずから存在の證しとなる、そういう人だと思う。
 昭和六十二年に松本で行われた萬緑全国大会の折、私ははじめて千晶さんを知った。すでに中村草田男先生亡く、その後を継いだ香西照雄氏も亡くなった後の大会で、賑わいの中にも
寂寥感があった。海抜2千メートルの美ヶ原の高原から見る北アルプスの連峯がすばらしく、登山家でもある北野民夫氏の説明を聞きながら<ししうどや金剛不壊の峰のかず>という句をつくった覚えがある。美ヶ原の頂上附近に幾つかのケルンが積まれてあって、それも恰好の句材であり、その周辺に人影が絶えなかったが、句会のとき発表されてみると、千晶さんの、

    積むケルンこつと音して師なき秋

が最高点になった。そういえば千晶さんはケルンの傍らから離れなかった印象である。<師なき
秋>の師とは、私たちにとってはむろん草田男先生であり、千晶さんにとっても変わりがないであろうが、より直接的には香西氏のことであったと思われる。ケルンの上にみずから積んだ石が
「こつと音」したという。この音が共鳴を誘うのは作者の真実感にほかならない。それはまた松本
大会の印象を集約した忘れがたい一句であった。
 千晶さんは昭和三十四年東京に生れ、母上の手ほどきで句作を始めたという。五十八年に香西氏と出会い「萬緑」に入会したとき、すでに有望な新人として迎えられたといってよい。だが草
田男先生の最晩年であり、「樹頭の花」で先生の選を受けたのは二回きりで先生と永別され、生の謦咳に接する機会がついに無かったようである。以後、香西氏をはじめ萬緑青年句会で写生を叩き込まれたという。香西氏が雑詠選評「四季開花」に採り上げた千晶の句は次の通りである。

    雉歩く頸の虹色さざめかせ

「雉が歩く時の頸毛の共揺れのざわめきと、三彩のさざなみのような輝きの美しさが定着されている。的確な写生に基づく見事なレトリックである。」

    ボロ市や空を映して鏡売る

「ボロ市で中古の手鏡や姿見を売っている。鏡に映った青空は、混雑した市の人々に、頭上に広がる空の解放感を改めて思い出させる。中古の鏡に空というおまけを付けて売っているのだ」
   
 鯉の水尾ゆつたり錯綜糸桜

「公園の池のほとり、枝垂桜が微風に揺れてゆっくりと錯綜する。下の水面では多くの鯉の背鰭
や尾鰭が起こした水尾が、縦横に入り混じまじっている。<ゆつたり>は、のどかでゆたかな感じを表わす。それで水尾のひろがりやその交叉のゆたかさをも暗示する」

 香西氏の指導とそれに応える千晶さんのひたすらな写生修行が感じられるが、大学でフランス文学を学んだセンスも生かされて、入会後たちまち頭角をあらわしたのであった。だが、六十
二年にはその香西氏とも永別されて、美ヶ原の鎮魂の一句が生れたのであった。
「萬緑」の新人たちは草田男先生以後、香西、北野、成田と選者が替って動揺したと思われる。
千晶さんの場合、すべて二十代の時期の事であったが、彼女は草田男俳句を学ぶことでむしろ目標が明確になったと私は見ている。写生を基礎とする「芸と文学」の実践である。草田男先生と会っていない彼女は、しばしば先生の墓参をされている。カトリック墓地のその寝墓には、
「勇気こそ地の塩なれや梅真白」の一句が深く刻まれており、師の啓示を受けるために彼女は墓参されているのかもいれない。

     草田男忌帽子の下の顔昏るる
     露の墓一会なく師と仰ぎつつ
     草田男忌来る赤松は雲払ひ

 私が「樹頭の花」の選を担当することになったのは平成元年であるが、千晶さんに注目してきたのはいうまでもない。「四季開花」の選評で私は彼女の句について斯う書いた。
  この人の俳句はかなり自由に発想しながら、感情に流されない表現の確かさがある。省略の確かさといってもよい。対象に触発された発想のポイントを掴んで離さない。感性と知性のバランスが一種の美を生んでいる。若い人ならもっと燃えて欲しい感じもするが、なりふりかまわぬ態度ができないらしい。

     蝦の眼の燐光放つ無月かな

 無月の闇に蝦の眼が燐光を放っていると見た。妖しい燐光のリアリティがある。蝦の眼にとって無月は海のような暗さであり、燐光と無月の照応が一種の幻想美を誘う。

     幼な児に昨日は遠し桐の花

 昨日、今日、明日という時間の連続の中に生きて、昨日にこだわり明日を思いわずろうわが生きざまに対して、幼児には昨日はもう忘却の彼方にありと見た。それは作者の内部に残っていて喚起された世界なのかもしれない。自由な時間への羨望。この時作者は詩人であった。桐の花が効いている。

     色彩のさざなみ涼しクレー展

 ポール・クレー展の印象。淡い色彩と繊細な線を駆使した美しい画面構成に魅せられたのであろう。壁面に展開されたクレーの世界を「色彩のさざなみ」というフレーズで書きとめた稚純な
感性にひかれる。クレーの絵に純化されたこころの表現といってよい。とまれこの十年間に千晶さんの俳句は少しずつ変ってきて、もう一つ飛躍する体勢にありこれまでの作品を選んで「晶」と名づけたゆえんに注目したい。
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# by owl1023 | 2007-07-05 05:00 | 長嶺千晶著書