栞 「余白」の愉快 吉田美和子 2016/04/10 「緑陰の余白」とは、なんと素敵なことばだろう。 緑陰にあるかもしれぬ余白かな 百 「緑陰」も「余白」も誰でも知っている単語だが、俳句としてこう組み合わされたときに、私たちははっとして、納得する。「余白」はまだ何も描かれていない残された部分の意だが、「白」の印象が「緑」と呼応して、空間のせいせいする色彩感、初夏の木漏れ日の中にいるような清爽感を感じさせるのだ。 おおむね読者われらの日常は、余白も無い雑駁なけだるさに埋まっているから、この緑を浴びながら「あるかもしれぬ余白」に向かう作者の眸の明るさに、少女のような無垢を感じて打たれるのである。兎のあとを追いかける不思議の国のアリスのような眼差しに。 もちろん、余白とは残余であり余生であり、まだ生きられるかもしれない最後の場所――であるから、少女の句ではない。しかしことばが作者の感性を通してこのように若やぎ生き直すこと、それが俳句の真髄であり文学の意味であるに、ちがいないのである。一瞬の、すなわち永遠のいのちを得ること。こんな句を生み出しえてしあわせだ、百さん。 さて、読者諸氏はどの句を推挙されるのだろう。 あたたかや神も仏も同じ森 春の雪眼鏡を空へ忘れたか 麦秋や畑の微熱も刈り取られ 布草履洗つて干して裸足なり などなど、柔らかで斬新な、好きな浅見俳句はいっぱいあるが、一巻を閉じたときに私の中に思いがけなく夕陽のイメージが残響した。 大西日まつすぐ届く我家かな これである。私は何度か浅見邸にお邪魔したことがある。あのリビングからキッチンへと続く広い空間に、大西日が満ち満ちたのだな、と想像する。そのとき、夕陽を浴びて野菜たちが踊り出すのである。 夏野菜すべて天地の懐に 急がねば真つ赤なトマト破裂する 星影の小道に揺るるゴーヤかな 大西瓜転がる大地も球形で 浅見邸の野菜は素晴らしい。玄関の前が畑で、夫君の研究になるという優秀な土質に支えられて、新鮮な野菜たちが本当に美味しいのだ。早く食べてとトマトが叫んでいる。丸い地球の上の丸い西瓜がとぼけて可愛い。ここで不思議の国のアリスはエプロンをした魔女のように、魔法の杖を振っている。みんなキラキラに変身だ。そしてこの句である。 梅漬けて形見のやうに配りけり ああ、これ、私もやってます。自慢せずにはいられない形見分けです。 「余白」はしなやかな愉快に満ちている。 「緑陰の余白」散策 川村研治 本当は行方不明の雲雀かな 雲雀は不思議な鳥である。どこまでも空高く上っていったかと思うと、急に降りてきては、さっと身を隠してしまう。本当は声だけを虚空に残したまま、行方不明になっているかもしれないのだ。 花満ちて逢ひたき人とゐるやうな 桜の花の咲きだす頃は、一年前から待ちに待っていた人と逢うような心地であろうと思う。そして、花の咲き満ちている間は、その人と一緒にゐられるという嬉しさに浸っている時なのだ。 桜の実湖狭くなるところ 桜の花の頃は湖の岸辺に咲き盛って、水面に花影を映していたであろう。特に湖の狭くなっているところでは、両方の岸辺の桜がみごとな景をみせてくれていたであろう。今ではすっかり緑濃きころとなり、桜の実がびっしりとついている、静かな趣のなかで、花の頃を思い返しているのであろう。 水澄めば古い薬を捨てにけり 常時薬を服用していると、きちんと飲んでいるように思っていても、だんだん溜まってしまうものである。古くなってもまだ大丈夫とは思っても、時には思い切って古いものを処理せねばと思っている。水澄むころの気分爽快な時になると、そうした決断もしやすいのであろう。 地虫鳴く熊楠本を読み始む 南方熊楠は民俗学者、博物学者、大英博物館東洋調査部員、粘菌の研究で知られる。諸外国語・民俗学・考古学に精通し、著書多数ということで、魅力的な人物である。秋も深まり、地虫の鳴くような夜、熊楠の著書をひもといている作者の好奇心旺盛な性格がみてとれる。 逆さまに長靴干すや雪の晴 雪晴れの真っ青な空の下、一面の雪景色のなかで、黒い長靴の干されている何の変哲もない景色だが、印象鮮明、気持ちのよいある日が言いとめられた。 古屏風くちなはゐたるやうな染み 屏風も古くなると、理由は分からないがあちこちに染みができている。それを「くちなはゐたるやうな染み」と感じとったところが、独特。普通はただ汚れてしまったなあ、と思うだけであるが、この感覚から作者の性格の特徴がみえてくるかもしれない。 手袋の中の指輪を廻しをり 誰かと話をしているうち、無意識に手袋の中の指輪を廻している自分自身に気がついてびっくりしているのだ。勿論、話し相手に気づかれぬようにではあるが、人と話をしている間に、そんなことを考えていることに自分自身を不思議に思っている。 面白いと思った句をいくつか拾い出して、感想を述べてみたが、これらのことからも作者の興味の範囲が広く行き渡っていることがわかる。今後も、日常の景のなかや旅行の作品など、広い視野からの発想を展開されることを楽しみとしたい。 栞 充実した心境 上田信治 浅見百さんは、北大路翼さんの紹介で、句会に現れた。句会というのは「仮名句会」といって、いろいろな人が「仮名」で集まって句を出し合うという句会です(いやみなさんはいつもの名前でやっているのだけれど)。何を気に入ってくださったのか。以来、百さんはときどき来られるようになった。百さんはまじめに勉強されてきた方なので、ウチのような先生のいない句会は息抜きになるのだろう。 句稿をあらためて読ませてもらって、きっと多くの読者を得るだろうという句と、作者が気ままに詠んで少数の読者とよろこび合うのだろうという句の、両方があると思った。どちらも百さんの本領だろうし、自分にはそれが魅力的だった。 鳥雲に墨汁乾くすずり箱 五分刈の耳まで日焼運動部 蝉しぐれ夕餉のフライ揚がつても 水澄めば古い薬を捨てにけり 手堅くて、よくできていて、でも簡単ではない句ばかり。こういう句は多くの人の支持を得るだろう。 「すずり箱」の句。手紙か習字か分からない、書かれていたものはもうなくて、墨汁が乾いている長い午後。「鳥雲に」が、残心のようなものを伝えてよく効いている。 「五分刈」の句で、きれいな五分刈りだなあ、おや、耳まできれいに日焼けして、と思わず見とれていたり、「蝉しぐれ」の句で、フライを揚げ終えてもまだ明るい夕方なのだなあ、と思っていたりする。ふとした時間の空隙。 ずいぶん静かな落ち着いた心持ちで生きていなければ、こういうことには目が届かないだろう。百さんは、この句集の上梓に至るまで、だいぶ体調がすぐれない時期があったと聞いたけれど、きっと充実した心境で日々を過ごされたことと思う。 そして「水澄めば」の句。溜まってしまった薬を整理するだけの元気は出たのだ。百さんに、よかったですねと言えば、病気ばっかりで大変でしたよ、と笑われるだろうけれど。 緑蔭にあるかもしれぬ余白かな 本当は行方不明の雲雀かな 嬉しさは花野を胸に抱くやうな 満ちたりて花野の果にゐるやうな これらの句の大胆な詠いぶりには、思ったことをそのまま言ってしまう人の、天衣無縫の魅力がある。 「緑蔭に」の句の「余白」とは、心にサンクチュアリのある人が、外界にそれを見ようとする幻想だろうし、「雲雀」の句の「行方不明」とは、自由になってしまおうとする心が、 空気抵抗のように感じる不安のことだろう。そして「花野」の句の、満ち足りたさびしさの華やぎ、そして、そう詠ってしまえる明るさ可愛さに、自分は強く共感した。 潮干狩海水すこしあるところ ここからは、自分の偏愛の句をいくつかあげたい。 「海水すこしあるところ」って可笑しくないですか。そりゃ海なんで、海水にちがいないけれど、これは遠くまで潮の引いた千潟に、たまたまできた水たまりのことだ。海はだいぶ遠くにあるので、その水は、海の一部という感じもしない。人間のいる平べったい空間に、何となくただある水。海水。 梅雨の月やっと固まるプリンかな どうでもいいことを素材に、秀逸な取り合わせでまとめた句。月もプリンと同じように薄い黄色でたよりなくて、と読んでもいいけれど、ビジュアルの相似と見切らずに、プリンがゆるいそんな夜、と雰囲気で読んだほうが、自分にとっては魅力がある。 桜の夜遠くの駅へ送らるる 大木の倒れてからの天の川 秋日より笑顔の友の集いけり これらの句の少しの謎。「遠くの駅へ送られる」のは、本当に自分なのか。「倒れてからの」とは、天の川と競べられるほどの言なのか。「秋日より」集まってきた友だちは、どこから来たのか。 春の雪眼鏡を空へ忘れたか 雪空を見上げていると、自分が空へ落ちていくような気持ちになる感覚は「降る雪を仰げば昇天するごとし」(夏石番矢)に詠われた通りだけれど、その吸い込まれる先方である空に、この人は「眼鏡」を忘れた気がすると言う。ふつう、忘れものは過去に置いてくるものなのに、百さんは、昇天する先の未来に忘れものがある気がすると言うのだ。ああ、不思議、不思議。その雪も、春なのですぐに終いになってしまいそうだし。 いやいや、もっと、ずっと、俳句で遊んでくださらなきゃイヤですよ、百さん。 (Ueda Shinji 俳人) 序に代えて 岩淵喜代子 ときに俳句はどうあるべきなのか、あるいは俳句とはどういう形なのだろうかと立ち止まることがある。浅見さんから句集名を『緑蔭の余白』にすると聞いたとき、俳句は余白そのものではないかと思った。なぜなら、俳句の大方は差し出された十七文字から派生した世界こそが中身なのである。 浅見さんも何度も俳句に立ち止まり、俳句表現へのもどかしさを感じながら、作句を続けてきたのではないだろうか。そういう拘りを持つ作家なのである。 ――心のどこかにいつも大自然の人々の営みを感じていられる句を詠みたいのです。私にとって「緑蔭」は俳句を詠む源のように思われてきたからです。―― これは、浅見さんがあとがきで句集名を決めた理由について述べている言葉である。緑蔭という季語は、浅見さんにとってのよりどころの象徴となっている。 そのことを最近の「ににん」の句会の場でさらに実感することになった。 「ににん」句会は毎回鍛錬会のようなもので、通常の句会のあとに、席題句会が二度ほど行われる。朝から一日借りた会場を五時までぎりぎり使用している。 緑蔭の余韻のやうな水たまり 永い闘病生活にもようやく終止符を打つことの出来た浅見さんが、久しぶりに句会に顔を見せてくれた。 掲出句は、その浅見さんが(余韻)の席題を得て成した一句である。この句は、その日の句会の最高得点を得ている。 緑蔭を出て欄外をゆく心地 第一句集 緑蔭や隙間だらけの日を送り 第二句集 緑蔭にあるかもしれぬ余白かな 第三句集 緑蔭の余韻のやうな水たまり 第三句集編纂 こうして並べてみるときに、最後の(緑蔭の余韻のやうな水たまり)の句が作品として格段の昇華を見せているのが解る。これは単なる偶然ではなく、これまでの緑蔭に込める浅見さんの季語への想いが累積された結果だと思う。言い換えれば、季語は浅見さんの思想そのものになっているのである。 如月の鳥居大きく見えにけり 裏通り 絶間なく無縁仏に春の雪 ペンぺン草影も日向も白き花 一句目、緑蔭が浅見さんの思想であるように、如月もまた季節の推移によせる心が選んだ季語である。そうして、見慣れている鳥居が大きく見えてくるのである。二句目、春の雪はどこにでも降るのだが、作者が(無縁仏に)という提示をしたときから、特別な物語りがはじまる。三句目のペンペン草とは薺の花。あまりに細かな花なので、花として詠むひともあまりいない。そのことを、(よくみれば薺花咲く垣根かな 芭蕉)の句によっても納得する。浅見さんは、その小さな花を(影も日向も)によって際立たせている。 句集『緑陰の余白』には、こうした雑草として一括りしてしまいそうな草花がよく登場する。大方の俳人は歳時記によって鳥の声を知り、花の名前を知り、雑草の名前を覚えるのだが、浅見さんは日常生活の中で草木禽獣をよく見知っているのである。 しばらくはたんぽぽの絮でゐるつもり 裏通り 本当は行方不明の雲雀かな 同じ章にこんな不思議な句がある。 一句目は誰でも容易に理解できるだろう。たんぽぽの絮毛の浮遊を目で追いながら、その絮毛の先々へ思いを走らせているのだ。そんな穏やかな日和だったのだろう。童心の中でひとり遊びをしているようだ。 だが二句目は不可解な句である。初語の(本当は)からまず躓いてしまいそうであるが、魅力のある句である。中天で鳴いているその雲雀が迷い児だというならすぐわかる。しかし、ここでは目前にありながら行方不明と言っているのである。 そんな詮索をしているうちに、中空で鳴く雲雀の声には必死さが感じられてくる。雲雀の声を歓喜のそれと聞くか、必死な声ときくかで物語りが反転する。作者は後者と捉えて、どこかにいる親鳥を想っているのだろうか。 前句の(しばらくは)の句と同様に、読み手はいつの間にか、浅見さんの描いた絵の中に引きずり込まれてしまうのだ。 蟻だけの行進曲があるやうな 重石のやうに 前句の続きとして、不思議な句を次の章からも抽出してみる。真夏の蟻の行列にはよく出合う。どこへいくのか切りもなく延々と続く途方もつかない大集団、しかも速歩も揃った行進と言える。 眺めていると、目前の音もない大集団の移動は、見えていながら次元の違う影像にも思えてくる。浅見さんはそれを、蟻の身丈にまでなって、その行進曲を聴こうとしているのである。 純白の燃えだしさうな花水木 重石のやうに ぼうたんの明日にむかつて崩れけり 芍薬の雨に打たれてすきとほる 一句目の感覚的な詠み方。白が燃えだしそうというのは、いままでなかったかもしれない。この(燃えだしさう)の措辞によって、晴天の中の白の眩さが描きだされている。 二句目、牡丹はその豪華さゆえに咲くときも散るときも絵になるが、ことばで表現するのは難しい。子規は(白牡丹ある夜の月に崩れけり)と美意識で引き出している。 浅見さんは(明日にむかつて)により、牡丹の崩れ方を心情で受け止めているのだ。なぜ昨日ではなく明日なのかは、ほんとうのところは解らない。だが昨日よりは明日ということばのほうが、牡丹の散る激しさが現れると思うのである。 三句目、雨の中の芍薬の発見は本来的な写生で、浅見さんの俳句作りの基本はここに置かれている。 そうして、この句を据えてみると、浅見さんの表現の振幅度の大きさが伺える。これは単調な句集にならないための条件でもある。 梅漬けて形見のやうに配りけり 重石のやうに 花茣蓙へ重石のやうに座りけり 闘病の日常があってもなくても、年齢を積み重ねていけば日々のすべてが形見のようなものになる。 一句目の(梅漬けて)には、作者の生活する月日が浮上する。多分毎年梅を浸けては、親戚知人に配っているのだろう。そうした年月も、老いを感じる年齢に至れば、誰れもこれが最後の梅になるかも知れないという想いを巡らせることになる。 この「序にかえて」の冒頭で、俳句は余白そのものではないかと書いたが、まさに(梅漬けて)を語ることは、この句から浮上する作者の年月を語ることなのである。 二句目、一読しながら思わず口元が緩んできた。風の吹く日だったのだろう。花茣蓙の上に乗せた体を重石と例えるのは自嘲のようでもある。浅見さんにとっては極めて合理的な方法を用いたにすぎないのだが、なんだか可笑しみが湧き、前句の(梅漬けて)とともに浅見さんのもっと浅見さんらしい句ではないかと思っている。 大根の泣きたいやうな白さかな 指輪を廻し 水澄めば古い薬を捨てにけり 一緒くた 一句目、前の章に(純白の燃えだしさうな花水木)があるが、大根の白さは(泣きたいやうな白さ)になるのである。そうして、大根に繋がる月日を振り返っているのである。 二句目は一瞬意表をつく取り合わせのように思えるのだが、(水澄む)の本意に適っている。意表をついた表現と思うのは、取り合わせが新しいからである。浅見さんの俳句を作る現場はあくまで生活の場である。慢性疾患を抱えながらの日々の中で得た句である。そのことを想像すれば、薬の嵩も多かっただろう。 こうして句集を繰っていくと、大方の句が一句一章で詠まれている。その一気呵成な勢いが、読み手の心への浸透力になっている。それは対象に向かうときのゆるがない姿勢と惰性に陥らない俳句環境があったのではないかと想像している。 句集『緑蔭の余白』は、生身の浅見百さんの生きている立ち位置を、きちんと見せている作品の集積である。 二〇一六年七月七日
by owl1023
| 2017-01-25 01:11
| 浅見 百著書
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