句集

長嶺千晶第一句集『晶』

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本阿弥書店 1994年6月15日 刊

序文 成田 千空

帯文 成田 千空(序文より)
この人の俳句はかなり自由に発想しながら、感情に流されない表現の確かさがある。省略の確かさといってもよい。対象に触発された発想のポイントを掴んで離さない。感性と知性のバランスが一種の美を生んでいる。

   


 

収録句より
    雉歩く頚の虹色さざめかせ
    春昼や肉屋は赤き肉掴み
    こまやかに魚食ふ父や春の宵
    積むケルンこつと音して師なき秋
    芽吹く薔薇詩は放たれし光なる
    わが齢の三十はまた雛の齢
    嫁ぎ来てちちははへ書く年賀状


序 成田 千空

長嶺千晶さんはおとなしい人に見えて、燈がともったように周辺が明るくなる感じの人である。
若くて美しい都会の女性、といっていまえばちょっと歯が浮くようなことばになってしまうが、自己
賛美的な要素がまったく無い、知性と感性を内部に育ててきた人であろう。その静かなかがやきがおのずから存在の證しとなる、そういう人だと思う。
 昭和六十二年に松本で行われた萬緑全国大会の折、私ははじめて千晶さんを知った。すでに中村草田男先生亡く、その後を継いだ香西照雄氏も亡くなった後の大会で、賑わいの中にも
寂寥感があった。海抜2千メートルの美ヶ原の高原から見る北アルプスの連峯がすばらしく、登山家でもある北野民夫氏の説明を聞きながら<ししうどや金剛不壊の峰のかず>という句をつくった覚えがある。美ヶ原の頂上附近に幾つかのケルンが積まれてあって、それも恰好の句材であり、その周辺に人影が絶えなかったが、句会のとき発表されてみると、千晶さんの、

    積むケルンこつと音して師なき秋

が最高点になった。そういえば千晶さんはケルンの傍らから離れなかった印象である。<師なき
秋>の師とは、私たちにとってはむろん草田男先生であり、千晶さんにとっても変わりがないであろうが、より直接的には香西氏のことであったと思われる。ケルンの上にみずから積んだ石が
「こつと音」したという。この音が共鳴を誘うのは作者の真実感にほかならない。それはまた松本
大会の印象を集約した忘れがたい一句であった。
 千晶さんは昭和三十四年東京に生れ、母上の手ほどきで句作を始めたという。五十八年に香西氏と出会い「萬緑」に入会したとき、すでに有望な新人として迎えられたといってよい。だが草
田男先生の最晩年であり、「樹頭の花」で先生の選を受けたのは二回きりで先生と永別され、生の謦咳に接する機会がついに無かったようである。以後、香西氏をはじめ萬緑青年句会で写生を叩き込まれたという。香西氏が雑詠選評「四季開花」に採り上げた千晶の句は次の通りである。

    雉歩く頸の虹色さざめかせ

「雉が歩く時の頸毛の共揺れのざわめきと、三彩のさざなみのような輝きの美しさが定着されている。的確な写生に基づく見事なレトリックである。」

    ボロ市や空を映して鏡売る

「ボロ市で中古の手鏡や姿見を売っている。鏡に映った青空は、混雑した市の人々に、頭上に広がる空の解放感を改めて思い出させる。中古の鏡に空というおまけを付けて売っているのだ」
   
 鯉の水尾ゆつたり錯綜糸桜

「公園の池のほとり、枝垂桜が微風に揺れてゆっくりと錯綜する。下の水面では多くの鯉の背鰭
や尾鰭が起こした水尾が、縦横に入り混じまじっている。<ゆつたり>は、のどかでゆたかな感じを表わす。それで水尾のひろがりやその交叉のゆたかさをも暗示する」

 香西氏の指導とそれに応える千晶さんのひたすらな写生修行が感じられるが、大学でフランス文学を学んだセンスも生かされて、入会後たちまち頭角をあらわしたのであった。だが、六十
二年にはその香西氏とも永別されて、美ヶ原の鎮魂の一句が生れたのであった。
「萬緑」の新人たちは草田男先生以後、香西、北野、成田と選者が替って動揺したと思われる。
千晶さんの場合、すべて二十代の時期の事であったが、彼女は草田男俳句を学ぶことでむしろ目標が明確になったと私は見ている。写生を基礎とする「芸と文学」の実践である。草田男先生と会っていない彼女は、しばしば先生の墓参をされている。カトリック墓地のその寝墓には、
「勇気こそ地の塩なれや梅真白」の一句が深く刻まれており、師の啓示を受けるために彼女は墓参されているのかもいれない。

     草田男忌帽子の下の顔昏るる
     露の墓一会なく師と仰ぎつつ
     草田男忌来る赤松は雲払ひ

 私が「樹頭の花」の選を担当することになったのは平成元年であるが、千晶さんに注目してきたのはいうまでもない。「四季開花」の選評で私は彼女の句について斯う書いた。
  この人の俳句はかなり自由に発想しながら、感情に流されない表現の確かさがある。省略の確かさといってもよい。対象に触発された発想のポイントを掴んで離さない。感性と知性のバランスが一種の美を生んでいる。若い人ならもっと燃えて欲しい感じもするが、なりふりかまわぬ態度ができないらしい。

     蝦の眼の燐光放つ無月かな

 無月の闇に蝦の眼が燐光を放っていると見た。妖しい燐光のリアリティがある。蝦の眼にとって無月は海のような暗さであり、燐光と無月の照応が一種の幻想美を誘う。

     幼な児に昨日は遠し桐の花

 昨日、今日、明日という時間の連続の中に生きて、昨日にこだわり明日を思いわずろうわが生きざまに対して、幼児には昨日はもう忘却の彼方にありと見た。それは作者の内部に残っていて喚起された世界なのかもしれない。自由な時間への羨望。この時作者は詩人であった。桐の花が効いている。

     色彩のさざなみ涼しクレー展

 ポール・クレー展の印象。淡い色彩と繊細な線を駆使した美しい画面構成に魅せられたのであろう。壁面に展開されたクレーの世界を「色彩のさざなみ」というフレーズで書きとめた稚純な
感性にひかれる。クレーの絵に純化されたこころの表現といってよい。とまれこの十年間に千晶さんの俳句は少しずつ変ってきて、もう一つ飛躍する体勢にありこれまでの作品を選んで「晶」と名づけたゆえんに注目したい。
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by owl1023 | 2007-07-05 05:00 | 長嶺千晶著書


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